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患者・家族のQOLの向上を目指して…

高知県網膜色素変性症協会

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仲間の声

>光が灯るその日まで、ともに手を取り歩いて行きましょう!

>2013/02/09

 日本網膜色素変性症協会(以下「JRPS」と記します。)は、網膜色素変性症及びその類似疾患の患者自身、またそのご家族、医療関係者、支援者で協力し合いながら、「私たち自身で治療法の確立と生活の質の向上を目指す」というスローガンを掲げて活動している全国的な組織です。
 活動の一つの柱である、「私たち自身で治療法の確立を」ということについては、会員内外や企業などからの寄付金や募金などを集め「もうまく募金」を設置し、それらを基に網膜色素変性症の治療や基礎研究などに対して学術研究助成を行い、それらの研究の推進を図るという活動を行っています。
 学術研究には多くの資金が必要であり、「もうまく基金」からの助成は、その研究費全体からするとささやかな額に過ぎませんが、研究論文の審査は、我が国を代表する眼科医の理事により厳正に選考されており、その評価も高く、その取り組みは、着実に、わが国における治療法研究の進展に貢献してきたと言えるのではないでしょうか。
 歴代の受賞者の中には、今般、加齢黄斑変性へのiPS臨床試験で脚光を浴びている理化学研究所の高橋政代先生(元、京都大学)や遺伝子治療の山本修一先生(千葉大学)など、現在の網膜色素変性症研究・治療の最前線で活躍されている先生も数多くいます。
 今後とも網膜色素変性症の治療法が確立されるまで、活動の推進を図ってまいりたいと考えておりますので、その趣旨をご理解いただいた上で、ぜひ、「もうまく基金」への多くの皆様からのご支援ご協力をよろしくお願いいたします。
 そして、JRPSのもう一つの活動の柱は、「患者・家族の生活の質の向上を目指す」ということであります。
 これにつきましては、全国組織として国や公共団体、社会に対して働きかけを行い、制度や環境の改善を図るということも行っていますが、患者一人一人の生活の質の向上ということを考えたときには、やはりより身近な地域で地域に根ざした活動をしていくことこそが大切であり、各都道府県協会の活動というものが重要になってまいります。
 高知県でも2010年9月に、患者・家族の長年の念願であった支部設立を果たすことができました。
 高知県協会では、県の保健所や障害保健福祉課、ルミエールサロンや盲学校など関連機関と連携をしながら様々な活動をしています。
 最前線の治療研究などの勉強会や福祉制度、視覚障害者の防災対策などの学習会、家族のガイド・サポート講習回、当事者・家族の相談会、バスハイキングや料理教室、交流会、レクリエーションなどを開催し、会員のみならず、高知県内の患者さんやご家族の生活の質が少しでも向上することを目指し活動をしております。
 網膜色素変性症とは、カメラでいうとフィルムに当たる網膜という眼の組織に異常をきたす遺伝性、進行性の病気です。
 目に入ってきた光を神経の刺激(電気信号)に変える働きをする視細胞という細胞が障害され、暗いところで物が見えにくくなったり(とりめ、夜盲)、視野が狭くなったりするような症状を起こしてきます。そして病気の進行とともに視力が低下してきますが、ひとくちに網膜色素変性症といっても原因となる遺伝子の異常には多くの種類があるので、患者さん一人一人によって視力障害の発症の時期や視野の程度、進行の速度、残存する視力など、その症状に差があるというのも、この病気の特徴です。
 しかしながら、視力が低下することで、今までできていたことができなくなっていくという不安、いつか失明してしまうのではないかという恐怖など、症状に個人差がある一方で、多くの患者・ご家族に共通する悩みというものもあります。
 私自身が網膜色素変性症と初めて診断された40年前は、「治療法のない難病」と言われており、30歳頃までの失明を告げられ、ただ「いつか見えなくなってしまうのだ」という不安の中で失明する日を待つしかありませんでした。
 しかし、ここ近年の医療技術や研究、IT技術の進展により、真っ暗だった治療の道に少しずつ灯火が見えるようになってきつつあります。
 アールテック・ウエノ社によるオキュセバ点眼薬の第3相臨床試験の開始や九州大学病院での遺伝子治療の安全性確認を目的とした臨床研究の開始、大阪大学での人工網膜臨床研究、複数施設で神経保護治療臨床研究も着実に進んでいます。
 中でも京都大学の山中教授のノーベル生理学医学賞受賞後、ますます注目されるようになっているのがiPS細胞やES細胞などの再生医療の分野であり、理化学研究所の高橋先生たちチームの加齢黄斑変性の臨床試験申請というニュースは、私たちに大きな期待と希望を与えてくれました。
 このように、不治の病とされてきた網膜色素変性症も、10年後、20年後あるいは30年後には治療できる病気になるという可能性、希望の光が少しずつ明るくなっていくのを実感できるようになってきているのです。
 しかしながら私たちは、その日が来るのをただ座して待っているわけにはいきません。治療法が確立されるまでの間にも、患者・家族の悩み・苦しみというのは今日も明日も、そして今も止むことはありません。
 私たちは、網膜募金を通じての研究支援お勧めるとともに、会員のみならず全ての高知県内の網膜色素変性症、またその類似疾患の患者・ご家族の生活の質の向上を図るために、今後とも活動をしていきたいと考えています。
 「今まで一人で悩んでいた…」、「目が見えなくなってしまったらおしまいだ…」そのような方々の悩み、苦しみ、痛みを、高知県協会メンバーで共有をしながら、心の負担、苦しさ、重さを100グラムでも1グラムでも軽くできるように、支え合い、認め合いながら活動を勧めていきたいと考えておりますので、今後ともみなさんのご支援・ご協力をよろしくお願いいたします。

【 >高知県網膜色素変性症協会 会長  林 道夫 】


>【家族の声】家族の会との出会い

>2013/02/09

○息子が「網膜色素変性症」だと初めて告げられたとき
 「 メガネをかけているので、一年に一度は眼科の検診を。」と学校から通知が届き、気軽な気持ちで訪れた眼科の診察室にて突然聞いた 聞きなれない言葉。それが「網膜色素変性症」と言う病名でした。
 その病気の説明を聞きながら、そのあとの事はあまりにもショックで、まるで悪い夢を見ているような、自分のことの様に感じないまま・・・医師の説明を聞いていました。
 
○息子と私
 最初に病名を告げられた時、息子は小学4年生。 医師から伝えられた言葉は、「普通は40歳~50歳で発症するのですが、発病の年齢が早いので、このまま行くと、もしかしたら,高校生になる頃には、もっと進行しているかもしれません。」と聞いたように記憶しています。 
 どれくらいの間、涙を流し続けたのだろうか? どれくらいの間、暗闇の中にいたのだろうか。 どうしてこんな病気の宣告を受けてしまったのか・・・?   私はこの子に何をしてあげられるのか・・・。
 息子本人も、自分がいつ見えなくなるのか・・・?という恐怖に時々怯えていた。 この頃であったように思います。
 ある日突然 息子が夜7時ごろ 泥だらけになって帰ってきました。 びっくりして 理由を尋ねると「自転車で田んぼの中にこけた」とのことでした。
 また そのあとの言葉には「お母さん僕は夜が怖い」と言い出しました。「夜は暗くて前が見えない。もう少し明るい自転車のライトが欲しい!!」 と 真剣な顔で訴えてきました。
 そこで,色々調べた結果 すごく明るいライトが見つかり、それを自転車に設置しました。  それでも慣れない道を行くには、非常に怖い思いをしていたようです。
 又、 病気が分かった後、何日かして なぜか蛍を見に行こうという事になり、夜 7時過ぎに 土佐山田の山中に息子を連れて行きました。
 「見て! 見て! あそこに蛍がきれいに飛びゆうで・・・! ほらいっぱいとびゆうで!」 と息子に伝えましたが・・・。「え、どこに・・・? どこに 飛びゆうが・・・?」、「えっ・・・? あの蛍が見えんが・・・?」 「何にも見えんで・・・」
との息子の返事でした。
 その場に、5分いただろうか・・・。10分いただろうか・・・。息子との会話もあまり無く、「じゃあ 帰ろうか」と現地を後にしました。  その時の光景は、今でも脳裏に焼きついて離れません。その後は、誰とも蛍狩りには行っていません。
 又、息子が日常の生活をしていくには、普通に目が見える私にとって、部屋の、足元に物を置いたりすることが、日常のことであったのですが、以前は、それにつまづいていた息子を見ると、「きちんと下を見ていかなあ」とか、【きちんと見てお茶を入れんといかん!!】と 叱っていたのですが、今では、そこらあたりに物を置かない様に、 又 お茶をこぼしてもすぐに フキンを差し出すなど 失敗してもそれを受け入れるようになりました。
 あの頃は、私自身も 息子に教えられる部分もあったのだろうと、今は感じています。
 
○手探り状態の中で出会った患者の会
 そんな中で出会った同じ「網膜色素変性症」と診断された患者の皆さんの集まりである「ふくじゅ草」の会と、出会った事が私にとっても、息子にとっても、一筋の光でありました。
 そこで出会った「目の見えない」皆さんの明るさ、前向きさ、行動力、優しさに心が救われました。そして、その会を通じて知り合えた同じ障害を持つ子どもと向き合うお母さん方との出会い。 「同じ、苦しい思いを分かち合える仲間がいた事が、今まで自分一人で悩み苦しんでいた、私にとっては本当にありがたい存在でありました。」
 
○そして、今
 JRPS高知県支部に参加させて頂き、ここで出会えた沢山の皆さんの お陰で私の涙は随分と乾きました。
 とはいっても、自分のことを話すとなるとまだまだ涙が流れます。「息子が不憫だと思う気持ち・・・。将来は必ず見えなくなるという不安さ・・・。」 、んな色々な気持ちがあるからずっと涙が流れるのでしょうか・・・。
 沈んでいるそんな私を、元気付けてくれたのは、仲間の皆さんの、励ましや、患者さんからの次の様な言葉でした。
 
 「あんた。親が泣きよったらいかんぜ! 子どもは[俺のせいで]と思ってしまうぜよ」
 「まあ・・・。見えなくなれば、見えなくなった時にどうするかを考えればいいんですよ。 何とかなります。だって実際に僕はこうして何とかなっているんですから・・・」
 こういった言葉に支えられながら、何とか現在、少しずつではありますが前向きに息子と笑顔で暮らしていこうと決めた私です。
 そして、今 息子も高校2年生。
 
○そして希望のiPS細胞
 息子が病気を宣告されたとき医師から告げられた言葉で今もずっと忘れられない言葉は「この病気は現在の医学では治療方法も無く、処方薬も無いのが現状です」と言われてから8年・・・。しかし希望の光が見えてきました。
 山中 しんや教授 のノーベル科学省受賞が 私たち患者・及び家族にとって、どれほど希望の光となった事でしょう。一日でも早い人への再生治療が行われる事を、心から願ってやみません。

【 >JRPS高知 事務局長  浜田 祐子 】


>今のままでいいんだ…

>2016/02/29

 私は、平成16年8月に網膜色素変性症と診断されました。
 網膜色素変性症=父親=失明、暗闇の世界。頭の中は大パニック。
 視力はまだ十分有るのに、目の前は真っ暗闇。今を考えることが出来ず、先のことばかり考え、困った、どうしよう、私はどうなる。不安な毎日。時には、多くの安定剤を飲み一日中ふらふら、何を言っているのかわからない日もありました。
 そんな中で娘たちの結婚、孫の誕生と幸せなこともありました。視野・視力後落ちていく中、長女が、子どもの面倒は、お母さんしかおらんでと言ってくれて、生後3ヶ月より子守をさせてもらいました。
 2歳の孫が、りっちゃんりっちゃんはどうして生まれてきたの、何のためにいきちゅうのときかれました。後で長女が言うのに、アンパンマンの歌の歌詞で、私もよく聞かれたよと笑いながら言いました。
 何のために生まれたのか、何の種に生きているのか、この先助けてもらうことばかり、自分では何もできない、家族よ周りの人を助けてあげる事も世話をする事も出来ない。助けてもらうだけ何もできない、そんなので生きている意味があるのか、生きていていいのか。人に頼るだけの人生は嫌だ。と涙涙の日を数年過ごしました。
 そしてやっと答えを見つける事ができました。その答えは、失明した時、自分の人生は自分で終わりにしようでした。
 その答えを見つけた頃、ルミエールサロンの別府さん金平さんに出会うことが出来ました。その時別府さんから今度高知jrpsの設立総会があるので行ってみませんかと声をかけてもらいました。
 ほかに2名の方から声をかけてもらい、沈んだままの気持ちで設立総会に行かせてもらいましたが、会場に入っても何か場違いな所に来ているのでは、私が来るところではないんじゃないか、いつ席を立とうかかえろうか、涙も出てきました。
 そんなことを考えているうちに堀内けいさんの ミニコンサートが始まり、歌に話、涙は止まりません。そんな中、堀内さんがこんな話をしてくれました。
 今の自分のままでいい、今の自分のままでいるのは難しいことですが、今のままの自分でいい、だったと思うのですが、涙は溢れ出し、心の中のモヤモヤはスーッと消えて無くなりました。気持ちが軽くなり、今のままでいいんだ。そう思った時気持ちの切り替えができました。堀内さんありがとうございました。
 その後高知jrpsの方たちと知り合うことが出来、悩みを聞いてもらったり、アドバイスをしてもらったり、又視覚障がい者のグッズがたくさんある事、見えなくなっても沢山の楽しみがある事を教えていただきました。今私は、本を聞いたり、メールをしたり、Skypeをしたりと楽しい時間を過ごしています。
 主婦業でも、工夫、いろいろなグッズの使用と少しの努力とで、あまりふじゅうを感じる事はありません。ルミエールサロンの別府さん金平さんに出会うことがなかったら、私はまだ暗闇の世界をさまよっていたと思います。
 4人の孫たちを生後数ヶ月より保育園入園まで、大きな怪我もなく子守をさせてもらいました。今、4人の孫たちは小さな可愛い手で上手に私をサポートしてくれています。
 いつか訪れる失明の時、悔いのないよう。後悔のないよう今自分にできる事を出来る限り家族や周りの人にしていきたい、又日々の生活の中で感謝の気持ちを忘れる事なく暮らせていけたらいいなと思っています。
 この病気になって私は、大きな宝物をいただきました。その宝物は高知JRPSの仲間の方達です。この宝物はずっと大切にしていきたいと思います。
 まだまだ不安はありますが、今の気持ちを言葉で表すと人生バラ色です。

【 >会員 Tさん 】